「モネ、印象派の目」展

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『睡蓮』 (1917-19、油彩、高さ100cm、幅300cm、パリ、マルモッタン・モネ美術館)
© musée Marmottan Monet, Paris / The Bridgeman Art Library

「モネは一つの目にすぎないが、それはなんという目だろうか!」と、セザンヌは語りました。しかしモネはその目を患い、代表作である『睡蓮』の連作を制作中に危うく失明しそうになりました。この印象派の名作は1918年、第一次世界大戦終結時のフランスの勝利を祝賀するため、画家から国家に寄贈されました。パリのマルモット・モネ美術館で2月15日まで開催されている展覧会では、モネ(1840-1926年)がどのようにして白内障を克服したのか、眼科専門医の解説とともに紹介しています。このつらい視覚障害は日常生活に支障をきたしたうえ、その視覚条件の下で絵画の制作を続けるために、使用される色彩も変化を余儀なくされました。「目と視覚に関する最先端の科学知識と美術史が交差する」展覧会では、「一人の画家の作品と独創性を最も端的かつ的確に表す『モネの視線』をより正確に理解する」ため、マルモット美術館の所蔵品(フランス学士院が受遺者)をはじめ、フランス内外の美術館やコレクションから約60点を集めて、一堂に展示しています。

クロード・モネは1883年にジヴェルニーに移り住み、「日本の橋」が架かった「水の庭」で多種多様のスイレンを栽培しました。なかでも「水の月」と呼ばれるシロスイレンは、1914年から1926年にかけて、名高い連作「睡蓮」の題材となりました。モネは第一次世界大戦の休戦協定が1918年11月11日に締結された翌日、友人である当時のジョルジュ・クレマンソー首相に次のような手紙を送りました。「私は2作の壁画を完成させるところで、戦勝の日にサインを入れたいと思う。ついては、この作品を貴方を通じて国に寄贈してもらいたい。わずかではあるが、私にとって国全体の喜びを分かち合うためにできる唯一のことだ」

クレマンソーはジヴェルニーに駆けつけると、モネに『睡蓮』をセーヌ川のほとりにあるチュイルリー公園のオランジュリーに据えることを持ちかけました。ここは画家モネにとって、生涯にわたり自然を敬愛する特別な場所となりました。モネは8枚組みの大壁画を完成後にフランスに寄贈し、自然光の入る楕円形の展示室に設置しようと考えました。高さ2m、総延長100mにおよぶ22枚の壁画に、睡蓮や柳の枝、水面に映る樹木や雲の影などに彩られた水辺の風景を描き、鑑賞者に「果てしなきすべて、水平線も水際もない波紋のような幻想」を与えるのが彼の構想でした。

モネはジヴェルニーに新しいアトリエを構え、母国への歴史的な寄贈品を完成すべく休みなく制作に打ち込みました。ところが1912年、当時72歳だった彼は、白内障の最初の症状に襲われました。右眼の視力が落ちたのです。診察した専門医は両眼白内障と診断、左眼よりも右眼の方が症状が深刻で、一種のもやがかかった状態により色覚に異常をきたしていました。光と色彩をこよなく愛する画家にとって悲劇的な出来事でした。友人のクレマンソーは手術を受けるように熱心に勧めましたが、モネは手術で失明したり、色覚障害になることを恐れて、メスを入れることを拒みました。1923年に左眼の視力が落ちて読み書きも不自由となり、とうとう手術を受けることになりました。手術は成功しました。モネは生涯最後の20年をかけて『睡蓮』の連作を完成しましたが、オランジュリー美術館を目にすることはありませんでした。画家アンドレ・マソンが「印象派のシスティーナ礼拝堂」と呼んだこの魅惑の場所は、1926年12月5日に画家が亡くなった数カ月後の1927年5月に開館したのです。

アメリカの女流画家リラ・カボット・ペリーはモネに師事し、ジヴェルニーで10年夏を過ごしました。彼女は隣人のモネについて、「生来の盲人が急に目が見えるようになって、目前に置かれた物をそれが何かまったく知らないままに描き始めるように、絵を描きたいと彼は願っていました。モチーフに向けた最初の視線が、常に最も本物であり、最も忠実であると明言していました」と述懐しています。

色覚障害を専門とする眼科医フィリップ・ラントニ博士は、非常に興味深い展覧会のカタログの中で、「クロード・モネは自然界に対して、できるだけ新鮮なまなざしを持つことを望んでいた。彼は1枚の葉を描いているのではなく、それが葉なのかどうか、どのような木に茂る葉なのか、そういうことは気にせずに、目に映る緑の色を描いていると言っていた[…]。彼は初めから、色に関する情報と、形状や空間状況に関する情報を切り離していた。ところが近代神経生理学の研究で、このアプローチが視覚器による実際の働きとまったく同じであることが証明された」と解説しています。

モネは手術前、すでに色の見え方にばらつきが生じ(「赤は泥のような色に見えた」)、絵の具自体の色を識別するのも困難になっていました。彼は「ラベル」と「不動の配列」のみを頼りに、「パレットに色を広げるため」、絵の具のチューブをきちんと整理することから始めたと語っています。さらに青色もすでに知覚できなくなっていました。

手術後は逆に、「黄と青が強く見えすぎる」と嘆いていました。彼の木製のパレットと同様に展覧会で最も心打つ展示品である色付きの眼鏡は、こうした術後の色覚異常を矯正するために処方されました。アントニ博士の解説によれば、これはフィルターの役目をしている水晶体を摘出したため、「手術を受けた白内障の眼の網膜は、正常な眼の網膜に比べてはるかに多くの光を受ける」ことが原因です。

ジョルジュ・クレマンソーは医学の専門家ではありませんが、彼を気遣っていた友人として、次のように述べていました。「モネの網膜が驚異的なのは、1mも離れていない至近距離から、色彩や色調が複雑に入り組んだキャンパス上で、遠く離れて見るのと同じように的確に題材の描写を把握していることだ。私には彼の網膜がある視点から別の視点へと瞬時に順応できるとしか他に説明のしようがない」

美術史家のルネ・ユイグは、「モネは『睡蓮』を年々近くで凝視するうちに、催眠状態に陥ったように、彼の視野に通常に映る情景から、その中に吸収される接近状態となった。彼は池をのぞき込むように、イーゼルも地面すれすれに置いた。ついにはバランスも無視され、上も下も、空も水も示すものはなくなり、両者が密接に混ざり合うとともに、モネと自然もお互いに吸収されていった」と指摘しています。

この『睡蓮』の独創性をより際立たせるため、展覧会の運営委員はモネの意図に沿って、鑑賞者も水面をのぞき込むように、作品を「床面すれすれ」に展示する方法を選択しました。オランジュリー美術館の楕円形の展示室にある作品は、当然ながら動かすことができないので例外です。この展示法によって、遠近感は一切なくなっています。ところが遠近法は、モネのそれまでのほぼ全作品で大きく発展していたのです。

国立医学アカデミーの終身書記であるジャック=ルイ・ビネ博士は、次の点を強調しています。「至近距離で上から見た『睡蓮』の連作で、距離も遠近法も廃止された。池の水面は水平線のない平面となった。最初の連作で水平線はすでに姿を消していた。それは垂直も水平もない『水の鏡』である。視線はもうどこにも向けられていない。[…]ナルキッソスが鏡の自分を見ることはもうない。彼は鏡の上にはいない、その中にいる。彼はスイレンと化したのだ」

この空間の変化には色彩も関与しています。というのも、モネの色彩が変わったからです。「色彩のコントラストと同時に、タッチの輝きも増した。大きな空間は緑や青、時に紫を帯びた、色彩環に近い流れるような色によるほとんど単彩画で、そこに池の水と水面に映る空が一つに溶け合っている。沈んだ暗い空間には、かろうじて描かれた、輪郭を丸く囲んだような花やスイレンの白、黄、そして時に赤が光の渦を放ちながら漂っている … 」

クロード・モネは興味深いことに、その輝くばかりの画家人生を通じて一度も虹を描いたことがありませんでした。

最終更新日 29/01/2010

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