高田賢三氏死去、フランス大統領府が追悼声明 [fr]

 フランス大統領府は10月6日、ファッションデザイナーの高田賢三氏の死去を受けて声明を発表しました。

 彼は日本人ファッションデザイナーの中で最も有名で、最もフランス的でもあるデザイナーでした。フランスを第2の祖国、創作の地とした高田賢三氏が日曜日(4日)、帰らぬ人となりました。

 多くの偉大なデザイナーはその姓で広く知られています。彼はその名で広く知られました。彼の名は陽気で花と色彩にあふれたエレガンスの代名詞となりました。

 高田賢三氏は7人兄弟の5人目として生まれ、ランウェイやスパンコールとは縁遠い、大阪近郊の町で育ちました。とはいえ、幼いころから、姉たちのファッション誌をむさぼるように読み、姉が通う洋裁学校に強い興味を持ちました。待合茶屋を営んでいた両親は、この熱中ぶりを男らしくないと思い、好意的な目では見ませんでした。彼は両親を困らせまいと、おとなしく神戸市外国語大学に進学しましたが、退屈さのあまり、やがて自分の道を進みたいという思いを抑えきれなくなりました。そこで彼は東京の服飾学校の名門、文化服飾学院の最初の男子学生の1人になりました。

 学生時代の彼は、イヴ・サン・ローラン、ピエール・カルダン、クリスチャン・ディオール、ピエール・バルマンらが、女性や男性を彼らの想像力の衣で包んでいたファッションの都パリに滞在するため、フランスに行くことを夢見ていました。6カ月滞在する予定で渡仏し、結局そのままフランスを離れることはありませんでした。パリのファッションショーを初めて見て目を奪われ、最初のデザイン画を売り込み、人気の既製服メーカーに就職しました。

 パリに来てから5年後の1970年、「楽しい」服を作りたい一心で、自身初のコレクションをギャルリ・ヴィヴィエンヌのブティック「ジャングル・ジャップ」でお披露目しました。新しいあふれんばかりの色彩、花、柄プリントによって、モード界に斬新さとエネルギーの旋風を巻き起こしました。以来50年にわたり、オートクチュールのランウェイや道行く人の姿を華やかに彩りました。

 後に複数のブティックをオープンし、本店をヴィクトワール広場に構え、ジャングル・ジャップはKENZO(ケンゾー)になりました。彼はそれ以降、国際性と創造力豊かな精神から生み出されるすべての服にその名を刻みました。彼のモードは混淆であり、彼の創造の女神ミューズはさすらい人でした。というのも彼がインスピレーションを得たのは、日本の着物のみならず、スラブのセーター、アフリカのブーブー、マハラニのドレスなど多岐にわたったからです。どのコレクションも旅への誘いでした。

 彼はシーズンごとに、洗練さと陽気さが同居した、身体を自由に動かせる、生き生きとした、しなやかな服を生み出しました。常に大きな祭典だった彼のショーがそれを示しました。そこでは決してぎこちなさのないモデルたちがほほ笑み、踊り、デザイナーが象の背中に乗って登場して観客にあいさつすることもありました。

 高田賢三氏には2つのモットーがありました。それは斬新さとエレガンスです。そして2つのエンブレムがありました。それは虎とひなげしです。彼のスタイルの力強さを象徴する前者は、彼の服に紋章のようにしばしば現れました。彼の繊細さを表す後者は、世界中の浴室にある香水ボトルを彩りました。

 エマニュエル・マクロン大統領夫妻は、私たちのスタイルに色彩と自由を取り戻してくれたこのデザイナーのキャリアに敬意を表します。さらに近親者の方々、彼と一緒に仕事をしたすべての方々、彼の創作物を愛したすべての人々に、謹んで哀悼の意を表します。

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最終更新日 12/10/2020

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